ヤマト政権は伽耶を鉄資源の宝庫として見ていて、そのために伽耶(任那)とは密接な関係を持っていました。
また、高句麗は朝鮮半島で強大な勢力を持ち、同じ頃できた百済や新羅をも圧迫する程でした。この頃にはヤマト政権は百済や伽耶と組んで高句麗と争っています。
これらは4世紀の話です。
それが5世紀頃になると余計に高句麗が勢力を強くし、南下して百済及び新羅に迫ってきました。しかし、後に新羅が半島を統一することからもわかるように6世紀頃になると百済や新羅も力をつけてきました。そして新羅が力をつけて南下し、伽耶諸国に迫った感じです。
同様に百済も伽耶諸国の支配権を持とうとし、大伴金村の失脚のもとになる四県割譲なども起こります。これらからヤマト政権の朝鮮半島における影響力は衰退しました。
しかし、その百済も後に新羅に敗れるように、おそらく新羅の方が力があったのでしょう。また、朝鮮半島の東側に位置することも関係しているかもしれません(日本に来やすい)。
先に書いたように鉄資源の拠点としての伽耶と、朝鮮半島における影響力を保つため(伽耶を復興するため)の伽耶の支配を保ちたかったヤマト政権は新羅に対抗するべく、遠征軍を出そうとします。
賄賂を送ったのかどうかは定かではありませんが、新羅と磐井は手を結んでいたとされ、対新羅軍を妨害します。
これには元々、弥生時代から北部九州という独立性の高かった地域の勢力が、新たに強大になっていくヤマト政権のような勢力に対抗するという、地域勢力間の軋轢のようなものが考えられます。
新羅と高句麗が同じ立場というのはどのようなことを仰っているかはわかりませんが、対抗する勢力であり、元々は高句麗の方が力があったのでしょうが、後には新羅もそれに対抗できるだけの力を持ったといいことは言えると思います。
すみません、今気づきました。
そもそもなぜ仲が弱かったのかという詳しいところまではすみません(´・_・`)
ただ、百済は高句麗からの圧迫を受けたために倭の軍事力を、倭は百済から大陸や朝鮮半島の文化・技術をお互いに求めたということは言えるのではないかと思います。
こんなに詳しくありがとうございますヽ(;▽;)ノ
あの、もう一つ質問なのですが、そもそも日本と百済ってなぜ仲がよかったのですか?(>_<)